Diary

謝ることは難しい            2005. 3. 8 TUE

テレビドラマは人間関係の宝庫だと思う。作り物だとわかっているけど見るうちに世界観にはまり人物に対しての評価や反応が自然に起きてくる不思議。そして、自分の人生のある場面を思い出したり誰かとの関係を考え直したりもする。

ドラマに限らずニュースを見ていても起きる反応だけどね。その事件の当事者とは全然関係ないにも関わらず様々なことを思ったり考えたり、家族や友人とも話題にしたりしてお互いの反応に同意したり驚いたり、またはケンカになったりもする(笑)

喜怒哀楽の感情を体験することができる素晴らしい材料なのかもしれない。材料と言うと失礼であったり不謹慎な場合もあるけど、自分自身が思う分には何の問題もないと思う。

実際どうすることもできない遠い場所での出来事が多いのだから。ニュースを見ながら自分の反応に制限をつけている人も多いと思うけど、それってでも変な話だよね(笑)

テレビに限らず新聞や雑誌などメディアって不思議だよ。自分がその情報にチャンネルを合わしたり入手しようと思わなければ知らないまま過ぎていく。

もちろん大事件であれば会社や学校などでも話題になるから知らないままって訳にはいかないけど詳しく知るには情報を自ら集めなければ難しい。過去を振り返っても、もう話題にすら登らなくなった事件や話題の多いことを改めて考えてみるとがく然とする。

そう思うと知らなくても問題のなかった事を、いかに多く私達は吸収してきたんだろう。もう、すっかり風化した事件に、その当時は心を揺さぶられたり嫌な思いをしたことも多い。同情することを無意識に強要されたような場面もあったかもしれない。今思えば果たして何だったのか?と。

こんな風に思うのも今読んでいる本との関係もあると思う。アリス・シーボルトの『ラッキー』を読み終わり、今はランディー・スターの『俺、死刑になるべきだった?』を読んでいます。この2册は同時に購入しました。

『ラッキー』はレイプ被害者であった著者の回復に至るまでの体験が書かれていて、『俺、〜』は精神疾患状態で母親殺しをした著者の、やはり回復までの体験が書かれています。

被害者と加害者、立場は違っても回復のドラマ、実話なのです。どちらも現在はご自分の体験をバネに活躍されていますが、その道程は厳しく、でも、回復することは可能なのだという勇気を与えてくれる本だと思う。

もちろん、本当にリアルに厳しい現実に途中で読むことを中断する位、色々なことを考えさせてくれる本です。

前回の日記にも書いたけど、いよいよ、わたしは自分の過去生の痛みに向き合う一歩を踏み出したのだと思う。

過去の人生だから関係ないのかもしれないけど、やはり統合できていない理解しあうことができない自分の闇の部分は辛いです。そして、それが今生の自分の痛みとも繋がっていると思う。

こんなこと書くと変に思うかもしれないけど、人には誰にも言えない闇の部分があり、癒されることを拒む気持ちもあるのかもしれない。でも、わかって欲しいという思いと、わかられてたまるかと抵抗する相反する感情。それが内側にある。

セラピストとかサポートする立場の人間は、心を開いてあげようとか真実を受け止める勇気を持てるように支えてくれる。でも、それすらも受け入れたくない(本当は受けいれたいと思っていてもできない)大きな闇に支配されている部分もどこかにある。

理屈では自分でもわかっている。でも、できない。したくないのではなく、ただ、できない・・・

なんで、こんな風に考える時期が来たんだろう? まるでラジオのチューニングをしているみたいに徐々に波長が合ってくる。戻すことは可能、このまま行けば合ってしまうことも承知の上で思い切って聴いてしまおうとしているみたい。これは準備ができたということか?

真実に目を向ける準備。受け取る覚悟ができたのかもしれない。

覚悟・・・という言葉がまさに相応しい。どんな結果が待っていたとしても受け入れる覚悟。ホントは見て見ぬ振りをしても問題なく通過できたかもしれない。でも、あえてやってみようと思う。

それは、きっと、もしかしたら失うことが多いかもしれなくても、たいしたギフトはないのかもしれなくても、今のまま知らないまま、見ないままでいるよりは前進できるかもという期待。

別のステージに上がる為に、次の場面を見る為には登らなければ、越えなければいけないことを知っているからだと思う。何の確証はなくても内側で知っている感覚。

そして、覚悟ができたから情報を受け取り始めたのかもしれない。まずは本と出会い、そしてテレビドラマで。

このドラマの場面、普通に見ていたらなんてことはない場面だったと思う。些細なことから娘の人生を変える過ちを犯し、数年ぶりに再会し過去の過ちを詫びたいと願う父親。でも、身勝手な思い込みで周りを巻き込み傷つけてしまう。本人はそれに気づいていない。

何にそんなに反応したのかというと「謝りたい」という気持ちの中に「許されたい」という甘えが見えてしまったから。そして、謝るという行為を改めて考え直した。

子供の頃から、悪いことをしたら謝るように誰もがしつけられたと思う。でも、本当の事を言うと、悪いと思っていなくても謝らされた経験は誰にでもあると思う。そして、謝れば済むことにも気づいてしまったかもしれない。

逆に謝ってもらった場面を思い出して欲しい。本心からでなくても謝られると何も言えなくなった事はない?

周りに先生や友達がいれば仲直りした振りをさせられ丸く納まった気がしたとか。でも、実際は仲直りには程遠く、それっきり避け合うようになることもある。

心から悪いと思った時は逆に謝る機会がなかったりする。それは、しばらく時間が経ってからでないと本当に何がどうだったのかわからないからかもしれない。

確信犯的に悪いことをする人は稀で、ほとんどは無意識で誰かを傷つけてしまう。また、その瞬間は相手が悪いと思っていて反応しただけかもしれない。

自分の身を守る為、自分の正義を守る為の戦いかもしれないのだから。でも、時間が経ち、相手の言い分を理解できるようになると、こちらにも謝る部分はあったと気づくことができる。

ほとんどの場合は些細なすれ違いや誤解からトラブルは起きる。冷静に判断することができれば、どちらにも非があることがわかる。

ケンカではない場合は、もっと複雑です。自分がイライラして感情を押さえることができなくて他人に当たってしまうこともある。悪いとは思っても自分の問題が解決しない限り真実に目を向けることができない。

素直に謝ることなどできないのです。そして、謝って済まないことも多くあるのです。

友人や家族など謝って済む相手ならまだいい。それまでの信頼関係があれば、素直に詫びることで許してもらえたり、逆にさらにお互いを理解し合えたりします。

でも何度もくり返したり、口先だけの謝罪だと思われたら溝は深くなる。かえって信じていた分だけショックは大きい。謝るくらいならするなと扉を閉じてしまう。

なんで簡単に謝るのか? 簡単に謝る人は反省のない人かもしれない。「許してもらう」ことで愛情確認をしたいだけだったりします。そして謝られる方も「謝られたら」→「許すことを求められている」ことに気づきうんざりする。許す価値のない人にはノーと言う勇気も必要かな(笑)

許さないと悪いことをしている気がするかもしれないけど違う。それに大きく傷つけられたとしたら、こちらこそ立ち直る時間が必要なのだから、許せる気分になるまで謝罪を受け取れないと毅然とした態度をとってもいいように思う。

事件の被害者の家族が思う感情。謝られても許せない。起こった出来事は元には戻らない。傷ついた体験は消せない。時間が経てば傷が癒えることはあったとしても記憶を消すことはできないのだから当然の思いだと思う。

許さない自由もある。いつか、許すことがあったとしても、それは、加害者を許すのではない。自分を癒す為に出来事を許すのだと思う。「罪を憎んで人を憎まず」がいいとは思わない。

取り返しのつかないことをした人は、やはり一生かかって償っていくのだと思う。相手に対しては当然で、むしろ自分自身に対して償う必要があるのです。正しく理解して活かしていくしかない。

謝って済まない時は、やはりその後の生き方で誠意を見せるしかないと思う。誠意を見せるってすごく難しいけどね。

今生で無理なら来世に課題は持ち越すのかもしれない。でも、だからといって今生は努力しなくていい訳ではない。今生でも、相手が向こうから許してくれるような人間に変わることは可能だと思う。

すごく大変だけど、でも、それも含めて実は今生の使命というか課題なのかもしれない。

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