Diary

先祖を敬う気持ち            2004. 6. 1 TUE

こんな気持ちになるなんて10年前では考えられなかった。自分本意と言う訳でもなかったけど、やはり若さゆえの世間知らずだったのかなとも思う。精神世界を探究している時は、今生の自分の環境というものを、あまり重視していなかった。

本来の自分探しをすることに忙しくて、ないがしろにしていた。先祖とか関係ないと思っていた。会ったこともない先祖や、守護霊みたいな感覚は宗教っぽい気がしていたし、現世利益を求めるような感じがして拝むという行為も形式的だったことにも気がついた。

昔から、先祖を大切にする、という考え方は説教と結びついていて、即、耳にタコというか煩わしいものと反応してしまう。「そんなこと言われなくてもわかっている!」と言い返していたけど本当は全然わかってなかった。

親や大人達 だって本当にわかっているのか怪しいものだと感じていた(笑) 会ったこともない実感もない存在を、どう敬えばいいと言うのか?

何かお願いごとがある時、苦しい時、神や仏に祈るというのが嫌だった。冠婚葬祭や季節ごとのイベントの時だけ思い出しているみたい。毎朝仏壇に手を合わせるのも習慣として行っているだけで気持ちはこもっていなかった。

わからないままやらされていたからかも?と今では思う。説明されたかもしれないけど、子供の頃は理解など到底できなかったしね(笑)

それでも、わからなくてもやっていたことは無駄ではなかったのかもしれないと、先日法事に参加してやっとわかった。たぶん30年たってやっとわかったような気がする。

記憶の奥に残っている最初の法事は小学生になったばかりの頃、曾祖父の葬儀だったと思う。今回は彼の33回忌でもあった。そして8歳の姪も参加していて、その当時の自分とダブった。

今回お経を和尚様があげられる時、参加者も一同に手渡された経本を読むことになった。わたしは新鮮な気持ちでした。できるだけ意味を考えながら読んでいき、どこかで目にしたような言葉の数々に「へ〜」と思っていました。

そして、ふと隣の声に耳をすますと姪が一生懸命みんなに合わせて読んでいるのに気がつきました。大人だってなかなか大変だったと思うのです。でも、まるで歌を歌うように音に合わせていくのです。スゴイな〜と驚きました。

そして、自分の子供の頃を思い出していました。法事での作法や雰囲気にしても、なんとなくだけど憶えているのです。妹とも話したのですが意外と印象に残っているのですよね。

だから、よく理解できていなくても、単なるまねごとだとしても参加したことは無駄ではなかったのです。だって、今では懐かしい思い出として語り合うことを楽しめるのですからね♪

そう思うとともに、色々な思いが湧いてきました。わたしは何事もきちんと理屈で理解できないと行動できない癖がありました。中途半端で終わることに耐えられず、いつしか行動しないことの言い訳に使っていたような気がします。

忍耐力がなく、すぐ諦めてしまったり、合わないと思うとすぐに見切ってしまいがちでした。途中までやって後で無理だと気づくより、早めに判断して退散した方が賢いし傷つかなくて済むと思っていました。

でも、もしかしたら上手くいくように努力することもできたのかもしれないと思う。やったことが、すぐ結果としてでなくても、それに対して興味を持ったり行動したことは意味があるのかもと。

縁というものを信じ始めると偶然はないわけだから失敗するということはないのだとも言える。失敗を恐れて臆病になったり、すぐに判断しようと焦る気持ちはどうなんだろう? やはり、その内には「傷つきたくない」という思いが隠れている。

何に「傷つく」のか?自分が決めたこと、自分が選択した未来に保証を求めようとする気持ちがある。誰だってバカな目をみたくない。でも、確実なものはあるのか?と聞かれたら、絶対確実なものなんてどこにもない。

あるとすれば「自分は大丈夫」だと信じる気持ちだけだと思う。信じる気持ちさえ無くさなければ、失敗したとしても経験だと思うことができる。成功を信じることをやめない限りそれは続く。チャレンジをギフトに変えることもできる。唯一確実な資本は自分自身だと思うから。

今まで魂の学びについてずっと考えてきた。今度は今生の自分を知る旅が始まるような気がする。だから、今回の体験は自分自身のルーツを思い起こす意味があったのだと思う。

縁というのものを信じ始めると偶然というものはないと気づき、と、いうことは先祖という存在、日本人として生まれたこと、歴史や社会についての理解、そして地球規模についても思いは広がっていく。

結局は基本に戻っていくのかな、という気もするけど、その基本すら普段は意識していなかったことに驚かされる。「失って初めてわかることもある 」つい先日のセッションで気づきました。

空気みたいな存在で大切に扱わなくなっていた人から別れを告げられ、その時は簡単に思ったけど後でじわじわと別れたことを後悔することもある。

身近過ぎて軽く考えてしまうことって多いと思う。先祖供養にしても習慣になっているだけでも悪くはないと思うけど、今一度心をこめてみるのもいいかもしれない。

何かの本に書いてあった。なにかをお願いしたり苦しい時の神頼みをする為に祈るという行為をしがちだけど、本当の祈るということをしたら世界は変わるらしい。

純粋な祈り・・・みんなが幸せでありますように☆ わたしも、できるだけクリアーな気持ちでこれからは祈りを捧げていこうと思います。

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