Diary

愛を持ってノーと言う          2005.12.14 WED

最近ベランダの草花と会話している?あやしい女です(笑) ガーデニングと言っていいのか謎だけどチューリップの球根を植えるようになって今年で3年目になります。一番気合が入っていたのは初年度で200近く植えました。昨年は100くらい。今年は50強。

コレは明らかにトーンダウン。やる気なしということか?と思う。もちろん他の種類が増えたとはいえ総数でみても半分近く落ちている。加えて手入れ状況も悪い。

意外と丈夫なことがわかり手抜きをするようになったのだと思う。水遣りもテキトーだったりするし最低の管理者なのです。その言い訳の多くが「面倒だから」と開き直る辺り始末に終えない。

でも、ホント意外と花って丈夫だったりします(笑)

もちろん手入れをすればした分だけ綺麗だとは思うけどテキトーでもそれなりに咲いてくれます。その力強さに感動するから育てることはやめられないみたい。でも、やはり、ちょっといい加減過ぎて気の毒な気はします(笑)

そんなある日、そろそろちゃんと手入れをしようと雑草を取り除く作業をすることにしました。ずっと放置状態だったため雑草と本物との区別がつかないくらい奴らは勢力を伸ばしていました。

秋は一番成長期だからかもしれないけれど尋常ではありません。面倒だからと見てみぬ振りをしているうちにみるみる育ってしまったみたいです。普段はメガネをかけないで水をまいているだけなので気づかなかったけど現実に直面した時は驚いて声も出ませんでした。

「どうしよう?」と思ったけれど、このまま放っておいたら雑草を育てているみたいになってしまいかねないので勇気を出してチャレンジです。

最初は軽い気持ちでしたが気合を入れビニール手袋を付けハサミ持参で取り組みました。その位育っていて簡単に手で抜けるレベルではなかったのです。しっかり根を張り花までつけた恐るべし雑草です。強敵でした。

かなりずる賢く根を張っているので時々抜いてはいけない本物を抜いてしまうこともあります。一瞬躊躇したり迷ったりします。とても効率的に作業することはできそうにありませんでした。

するとテレパシーで声が聞こえてくる気がするのです。単なる気のせいと思ったけど耳を傾けることにしました。

「正しいことが行われるのに迷うことはないよ。多少は犠牲が出たとしても平気だからやり遂げてね」

「君が気づいてくれて本当に嬉しいよ。何が正しいのか示してくれている訳だから、これで勇気を持って僕達が正しいことを貫けるよ。奴らに言ってやることができる、彼女が望んでいるのは僕らだってね」

「これで堂々と、このスペースに根を張ることができるよ、ありがとう」

そんな声が聞こえてくるようでした。ホントかな〜?と思いながらも、そう思うと頑張れそうな気がしてやり遂げられました。時間にすれば1時間位だけど大仕事をやり遂げた気分でした。

そして精霊の声を聞いたのかもしれないなと思うことにしました。だって、もし違ったとしても何の問題もないし、励みになったことは確かだからね。それに感情的にも繋がった感覚があって気持ちよく作業することができたのだから感謝の気持ちです。

それからも時々、彼らと会話をしているような気分です。雑草を抜きながら水をやりながら何だか不思議に癒される時間を過ごしているのです。

だんだんと空想なのか妄想なのかわからなくなる部分もあるけれどイメージの世界でそれぞれの役割から何かを学べることがあります。敵味方とかね。

何が正義で何が悪なのかベランダの勢力争いで垣間見てみても面白かったりします。自分がどんな風に世界を見ているのか、どんなことを信じているのかわかったりね。

今回のパターンでは明らかに、自分の面倒な部分に目を向けろ、ということでした。そして、望まないことと望むことを明確にしなくてはいけないということかな。

「望んでいない」「嫌だ」と思っていても手を下さない限り現実には嫌な状態が続くのです。

すると、その「望んでいない状態」が「望んでいる状態」なのかも?と潜在意識は判断するし神様もそう思っているかもしれないのです(笑)

すると当然、ますますその状態が加速することになります。放置は肯定となんら変わりがないからね。

やはり勇気を持ってノーと表現する必要があります。単なるノーでは弱いです。何が望みなのかを示し、その望みを明確にするために現れてくれたことに感謝しながらのノーなのです。すると納得して協力してくれると思います。

今回の件でも雑草たちは最初抵抗していました。それは、雑草優勢の状態を容認しているはずだと誤解していたからです。本物の草花達も自信がなさそうでした。

放置しているということは今のままがOKなのだということです。雑草達がいい気になるのも無理もありません。わたしの視力が悪かろうが関係ないのです。現実的に手を下さないことで何が真実なのかが曖昧になっていたのです。

でも、行動に移したことで善悪が明確になりました。わたしの意志が伝わり始めたのです。「雑草が嫌い」ではなく「草花が元気に育って欲しい」と願うことで、それでは仕方がないなと退散してくれたような気がします。

ちょっと悲しそうに「ちぇっ」と舌打ちしながらね。だから「誤解させてごめんね」と謝り、感謝の気持ちと共に見送りました。

すると草花達が元気になり力を発揮できるようになってきました。自分達が正しいことが証明されたせいか見違えるように変化が起こりました。応急処置でアンプルを投入したおかげかもしれないけどね(笑)

しかし、そう簡単に習慣を改められた訳ではないのです。やはり日常に戻れば同じことをくり返している自分がいます。あの時のことが嘘のように放置しそうになっているのです。とりあえず急場をしのげた事で安心してしまったのかもしれません。

確かに彼らも困るだろうな〜と思いました(笑) きちんと世話ができないということは育てる資格がないということです。綺麗な花を望むなら手入れをする必要があります。できなくて放置なら最初から育てるな、とも言える。

でも、逆に学びとして考えれば、それに気づくことで成長できる、ということでもあります。親子関係で考えてみるとわかるけど親になるのに資格は必要ありません。

子供ができたことで誰もが親になることができるのです。親になるのにふさわしい人格を持っていても、子を持たなければ親になることはできないので時には辛い現実もあります。

つまり現実的に、その状態であるということは、それは起こるべくして起きたと言うことができます。草花と人間を同じように考えるのはおかしいかもしれないけど命の重さに違いはないとすれば対等に感じてもいいかもしれないよね。

何事も全て同じように捉えることはできるはずだから飛躍し過ぎではないと思います。と、言うか、わたしはそう感じたのです。

面倒だけど続けているからOKなのかもしれないと思う。縁があってわたしの元に来た球根は、やはり必要な花が咲き命を輝かせてくれるのかもしれない。だから、やはり、できるだけのお世話をすればいいんだよね。無理してがんばらなくても許してくれるよね?

・・・でも、そう思うと今までみたいな「面倒だから」という感じでは申し訳ないな〜(笑)

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